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『完全自殺マニュアル』を読んだ感想の走り書き

勝手に産み落とされたのにもかかわらず、勝手に死ぬことは許されていないこの世界。
世界に生きる私は、生と死についてここ10年くらい、ずっと考え続けている。
答えはどこにあるのか。どこに書いてあるのだろうか。

 

今、私は "比較的" 楽しくて幸せな人生を送っている。
にもかかわらず、生きることへの意味は見いだせないままだ。
その点、反出生には理論的な正当性を感じる。

 

そんなことを考えていた先日。
上島竜兵さんが、自殺したというニュースが流れてきた。
彼が自殺するとは俄かに信じがたいが、その選択には大いに同情することができる。
今の社会は、誰もが暮らしやすくなり、そして生きづらくなった。

 

いま、そこそこ充実した生活が送れている私は、あえて自殺しようとする気が起こることはなくなった。
しかし依然として、生への諦めは捨てられていない。
生への諦めを胸に秘めながら、社会では仮面をつけて明るく振る舞っている。
彼ももしかしたら、そうだったのかもしれない。

 

彼のニュースを聞いて、久しぶりに自殺への興味が湧いた。
今やろうとは思わないが、かねてから興味があった本を手にとってみようと思い立った。
それが『完全自殺マニュアル』である。

 

一応未遂経験者でもあるし、サササッと読めるかなと思って読み始めたものの、違う意味でサササッと読むことになってしまった。
むごたらしくて、一文ずつ丁寧に意味を取りながら読む気にとてもなれない。
逃げるように、なんとなく読み切ってしまった。おそらくもうこの本を開くことはしばらくの間、ないと思う。

 

読んでいると、手から力が抜けていくあの感覚がある。やはり私は、あのころとまったく変わっていなかった。
縄に手をかけた時。ビニール袋をかぶって寝てみた時。
足がすくんで結局、地から足を離せなかったあの感覚。起きたらビニール袋が外れていた時の感覚。
死への恐怖と、生への絶望。

 

中学受験生だった小学生の時。
大人の考えたシステムのせいで、やりたくもない勉強をただひたすらやらされる毎日。
大人は誰も自分のことを理解してくれないと思っていた。


そこで考えついたのが、生まれてきたのが全ての元凶だったということ。
死んでしまえば辛いとか苦しいとか楽しいとか、あらゆる感情が存在しないので究極の楽を手に入れられるのではないか。
だから死んでしまおうと考えた。
自分の考えに「反出生主義」とすでに名前がついていると知ったのは、後のことだった。

死にたかったが、自殺の方法なんて大人が教えてくれるわけもない。
どんな方法でもいいから死にたかったが、痛いのは嫌だった。
痛くなさそうに死ねそうな方法は多分、全部試したと思う。

 

しかし、痛いのが怖くて、最後の一歩が踏み出せない。
なんとなく、死には強烈な苦痛が伴うと考えていたので、最後の一歩がなかなか踏み出せない。
首吊りならあと地面から足を離すだけのところで、足がプルプルと震えてくる。
縄跳びで首を絞めようとしても、最後にキュッと強く締めるところで、手が震えてくる。
結局のところ、辛くても死ぬのは怖いのだ。

 

というか、当時の私は本気で死のうとしていたのだろうか。それだって今ではわからない。
本気で自殺を考えていたら、この本にたどり着くのではないのか。
まぁとにかく当時は死ねなかったので、死ねない自分に嫌気がさした。
自殺を完遂した人を心から尊敬したし、非凡であり天才だと思った。

この本を読んで新しく知ったことがある。
それは人は思ったより簡単に死ねるということだ。
往時の私のように、苦痛を怖がることはない。痛みを感じずに安らかに死ねる方法は存在する。

別に今すぐ死にたいとは思わないけど、今すぐにでも死ねる。
と思っていたが、実際はなんだかんだ、今すぐには死ねないのである。
頭では死にたいと思っていても、痛いのではないか。苦しいのではないか。といった邪念が邪魔をしてくる。
凡人ゆえ。

 

しかしその邪念は、この本によってほとんど払拭された。
今の私はある程度のお金を持っているし、方法を不完全な形ではなく、完全な形で遂行できる手と頭を持っている。
本に書いてある通りに方法を実行すれば、本当に痛みなく死ぬことができるだろう。

 

生きるも死ぬも、人の自由だ。生まれてきた以上。
しかし「死ぬ」という選択肢は、実質的に存在しない選択肢だった。
社会的に自殺は許されていないし、他の干渉しない自分の中でだって死は怖い。

 

この本に目を通したことによって、(私にとっては)実質的に存在しなかった選択肢が選択できるようになった。
本のまえがきにも書いてあるが、この本はそういう目的で書かれた本らしい。
死にたい人は、本のまえがきを読むだけでも、気持ちの変化があるかもしれない。
だいたい生への諦観と死への欲求は、理解者がいないところから発生する。

 

先にも書いたように、私はこの本を熟読することができなかった。
想像するとむごたらしく、手から力が抜けていく感覚がある。
死にたいと考えている人間が「死ぬ」という選択肢を得られたのにもかかわらず、私はまだ死を怖いと思っているのだ。
この期に及んで何を考えているのかわからないが、体は正直だ。
痛くないとわかっていても、私はこの先自殺を完遂することはできないだろう。

 

この本を逃げるように読んでしまう人間、そもそもこの本を読めない人間は、凡人の枠からはみ出ることはない。
いつまで経っても自分は凡人で、だから死ねなかったのだ。これは縄に手をかけた当時にも痛感した。
自分は凡人であると、痛いくらいにわからされてしまった。


10年前にこの本を手に取っていたら、多分死んでいたのではないかと思う。
かといって10年前にこの本を知っていればよかったとは思わないし、知らなくてよかったと思うこともない。
生における全ては茶番だ。やっててよかったことなど一つもないし、やらなければよかったことも一つもない。

 

私がなぜ今すぐに死のうとしないのか。
それについてはよくわからないが、今は受験期のように生きていて辛くないのが大きいと思う。
別に特別楽しくもないが、辛くはないので特段何かアクションを起こそうという気はない。
辛くなったらアクションを起こすだろう。当然である。

世界のほとんどの人間は凡人である。
凡人の中でも生に悲観的な一部の凡人の中には、私と同じような境遇の人間も多いことだろう。
死にたいけど死にきれないとか。結局死ねない自分に嫌気がさしていたりとか。

そういう人間は多分、楽に死ねる具体的な方法を知らないだけだ。
この本を読んでおくことには、実際に選べる選択肢を追加できるという点で価値があると思う。
選択肢を得た結果、死ぬのか、なんらかの形に考えを変えて生きるのか、または今までと考えを変えずに生きるのか。
どの選択をするかは、本人の自由だ。