ひとばん寝かせたカレーはとてもおいしい

Twitterに載っけられない長文置き場

まいにち図書館

ブログの下書きはいくつか作っていたが、結局今月は一つも上げられないまま月末を迎えてしまった。

来月には1つか2つは上げたい。

 

YouTuberになった

youtube.com

GWは少し仕事が落ち着いていたので、撮り溜めていた最長片道切符の映像を編集して、1本目をYouTubeに公開した。
YouTuberというのは実に面倒なことを毎日しているのだなと実感した。
編集というのはとにかくめんどくさい。
傍からみたら楽そうに見えるので、小学生が目指してしまう理由はわかる。
だが編集は単純にめんどくさい。

YouTubeに動画を上げる目的なんて、広告収入が全てに決まっている。
カネもらえなきゃYouTubeなんてやらないだろう。
当然、広告収入は欲しいものだが、質の低い動画を不定期で上げたところで登録者が増えるはずもない。
しかし理想は、自分の気の向くときに動画をアップして、1億円の広告収入をGETすることだ。
ここには理想と現実の大きな乖離がある。

そこでせめてもの足掻きとして、英語で動画を作ることにした。
動画を英語で作ることによるメリットは以下の通りだ。

 

日本語より多くの人にリーチできる

日本語話者は1億人ちょっとなのに対し、英語話者は11億人ちょっといる。
つまり英語でコンテンツを作るだけで、目につく機会が日本語と単純に比較して11倍増えることになる。
最長片道切符の旅行についても、日本語ではすでに多くの投稿者がいるが、英語で投稿しているユーザーは皆無であろう。
つまり動画の言語を変えるだけで、ブルーオーシャンに一番に飛び込むことができる。これは爆アドだ。
おまけに私もコンテンツを作るうえで、英語を勉強することができる。

 

日本のうるさい鉄道オタクを一定数排除できる

日本の交通系YouTuberが上げている動画を見ればわかるように、(鉄道)オタクの中には指摘厨がいる。
少しでも間違ったことを言うと、「そこ間違えんなよ」「情報収集ができていない」と、永遠に怒りの指摘メッセージを送りつけてくる奴らだ。
間違いを指摘してもらえるのはとてもありがたいことではあるのだが、奴らは言い方がよくない。
敬語を使って丁寧に教えてくれればいいのに、なぜか最初からちょっと喧嘩腰なのだ。
奴らの話している日本語でコンテンツを作らないことで、そのような指摘厨を一定数排除することができる。

 

自身の商品への集客ポイントとして活用できる(かもしれない)

私は普段日本語を読んだり書いたりするような依頼を請けているが、依頼者の中には外国の方も多い。
私の商品は言語を扱っているものなので、日本語ネイティブはもちろん、ノンネイティブからの需要も当然ある。
さらに、こんな最長片道切符のようなニッチな動画をわざわざ見ているような層は、当然日本や日本語にもそこそこ興味がある層だろう。
この層に対してアプローチをかければ、仕事の幅が増えるかもしれない。

 

日本の交通系YouTube動画の多くは、派手なサムネとナレーションで情報を詰め込みまくる言わばスーツスタイルが主流であるといえる。
これが日本の視聴者層にウケているわけだが、外国ではそうではないらしい。
外国の交通系の動画を見てみると、飾らない字幕とゆっくりしたBGMで、ひたすら車窓が流れているだけの動画が多いような気がする。
ということなので、ナレーションを入れたりするのはさらに面倒でもあるし、私の動画はゆっくりめなBGMとシンプルな字幕のみで構成することにした。
当たるといいけど、当たったら当たったで色々と面倒臭くなるし、やはり生きるというのはダルい。

 

開業した

仕事が増えてきたので開業した。
が、はやく開業届を出していないと青色申告ができないということなので、さっさと開業しておけばよかった。
今年は白色申告を余儀なくされるので、多分3〜4万円分くらいは余分に持っていかれることになるだろう。
せっかく開業したというのに、損するということがわかって全然嬉しくない。

学生は親の扶養を気にしながら働いていることと思うが、扶養から抜けなければならない金額の壁があまりに低すぎはしないだろうか。
物価が高くなってしまった今、年収48万円(給与所得の場合は103万円)で自立して生活できるわけがない。
税制を決めているお偉方は、扶養の言葉の意味をもう一度辞書で調べてみてほしい。
「たすけやしなうこと。特に、生活の面倒を見ること。」と、広辞苑には書いてある。
年収48万円で、誰の助けも借りずに一人で生きていける社会なら、今のままでもいいんだけど。

それからいろんな控除が受けられなくなることで、結構な税金が持っていかれる。
働いたら罰金とは比喩ではなく、事実だったのだ。
優秀な若者が海外へ逃げてしまう理由がわかった。もうこの国に未来はない。
この国はおいしいご飯だけで回っている。

 

まいにち図書館

学校にほぼ毎日通うようになったので、必然的に図書館にも足繁く通っている。
図書館についての不満は過去の月記ですでに書いたような気もするが、再びここに書いておくことにしよう。

それくらいウチ(弊学)の図書館はクソである。

 

蔵書数が少ない

図書館にとって致命的な問題。ウチの図書館はとにかく蔵書数が少ない。
なぜ蔵書数が少ないかといえば、単純に図書館が狭いからだ。
狭いスペースに書架、閲覧机、自習スペース、等々を詰め込んだ結果、肝心の本が追いやられるという本末転倒な有様。
この問題を解決するには、図書館の入っている棟を新しくするしかない。

図書館といえば、両脇に書架がズラッと並んでいるものではないのか。
ウチの図書館は、壁に沿って書籍が並んでいるのみで、両脇に書架が並んでいる部分がほとんどない。
蔵書数が少ないので、求めている本に出会えないのはもちろん、ふと新しい分野や興味深い本に出会うこともあまりない。
書架を練り歩いていて、ふと興味深い本のタイトルが目に留まり、自分の知らなかった世界を垣間見る。
これができるのが図書館や本屋の醍醐味だと思う。

そういうのはたいてい無駄な本とか無駄な知識であり、「教養」だ。
ウチの図書館には理工系の、最低限の、本しか置いていないので、そのような教養との出会いの機会はまったく提供されない。
というか「最低限の」本すら、スペースが足りないので置かれていない。
ウチの大学がいろんなところに手を出しすぎてしまったため、各分野のめぼしい本だけしか並んでいないのだ。
その分野を知りたいと思ったときの、本の選択肢が少なすぎる。
もうすでにウチの図書館は、私にとって他キャンパスの図書館から取り寄せた本を受け取る場所としてしか機能していない。

 

ワクワクしない

図書館にいてワクワクするかどうかも大事な要素だと思う。
理想をいえばキリがないが、たとえば天井が高いのはわかりやすい指標ではないか。
天井が高いだけで開放感が生まれる。開放感がある図書館はそこで過ごしているだけでワクワクする。窓から中庭が見えたりなどすれば最高だ。
私の通っていた高校の図書館はこんな感じで、大好きな場所だった。蔵書数はもちろん高校なのでそれほど多くはなかったが、高校生の私にとって必要十分な分野と本が網羅されていて、たくさんの出会いをくれた。
人もテスト前を除けば大概少なくて過ごしやすく、司書さんも私によくしてくれた。

ウチの図書館はどうだろうか。
普通教室と同じ高さの天井。半地下にあって薄暗い。狭いので人がちょっといるだけで混んでみえる。
閉鎖された、陽の当たらないサンクンガーデン(これは構造上の欠陥)。
スイミングスクールにある水銀灯のような雰囲気の謎照明。
ぜんっぜんワクワクしない。

図書館は特別な場所だ。
図書館のための法律があるくらいなのだから、特別でないわけがない。
ゆえにその空間は、特別に演出されてしかるべきだと考える。図書館にいてワクワクするかどうかは、その図書館が素敵かそうでないかをしめすものさしである。

それは必ずしも空間デザインの素晴らしさだけを意味しない。圧倒的な蔵書数で知的好奇心を刺激しまくってくれてもいいし、蔵書数が少なくても館内が「いい感じの雰囲気」ならいい気分で読書や作業、昼寝に没頭できる。
とにかく図書館はワクワクできる場所であるべきだと思う。
ウチの図書館はそれらのすべてを満たさない。
上辺だけでもいいからワクワクさせてほしい。

 

人がいないならやめてしまえ メディアライブラリー

メディアライブラリーというのがたいていどこの図書館にもある。
映像資料を借りて閲覧できる図書館の機能だ。高校の図書館にもあった。
まだNetflixなどの映像サブスクがそこまで普及していなかった5年くらい前には、メディアライブラリーで映像を見ている人を見かけることはたまにあった。
しかし今この時代。あらゆる映画はNetflixで見ることができる。今どきメディアライブラリー使ってるヤツなんているのか。

そう思ってウチの図書館のメディアライブラリーに行ってみた。
「行ってみた」というのは、図書館の本が置いてあるメインフロアとは別の場所にあるからだ。ウチの図書館はフロアが連続しておらず、閲覧室からメディアライブラリーに行くためには2階分階段を登らなくてはならない。これもウチの図書館が嫌いな理由のひとつ。
さて、メディアライブラリーをそーっと覗いてみると、私の存在に気づいたカウンターの司書さんがマスクをつけた。
その瞬間、私は悟った。

 

このメディアライブラリーを使っている人間はいない。

 

普段の図書館は、(図書館内で喋るわけでもないのに)「必ずマスクをつけろ」と言ってくる。司書さんももちろんマスクをつけて仕事をしている。
その図書館の運営者たる司書さんがマスクをしていなかった。
司書さんがマスクを外したくなるくらい、ここには人が来ていないのだ。
人が来ないならやめてしまって、ここにも本置いたら?

 

図書館が建て替わる日を心待ちにしている。

もうその頃には、私は大学にいないだろう。