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人がパンツを穿くのはなぜか考える

どうもこんにちは。

今日はパンツを概念的に分解してみたいと思います。

なんでそんなことを考えたのかといえば、この前読んだ漫画のどこかに「見せパン」の描写が出てきたからです。

いつだって学問というのは、くだらない疑問から発展してきたのですから、パンツについて考えを深めることには学問的な正当性があるといえるでしょう。

またこれは、理論ではなく感情で動く人間の動きや心理を、できるだけ理論に当てはめてみよう、という挑戦でもあるのです。

※センシティブな内容が含まれます

 

パンツを定義する

さてパンツを考えるにあたって、まずはパンツを定義する必要があります。

なぜ定義しなければならないのか。一般に日本では、パンツという言葉には大きく2つの意味があるので、便宜上パンツの言葉が示すものをそろえておく必要があるからです。

www.google.com

解説はGoogle先生に譲るとして、ここでは私の主観に基づいて、以下のように単純に大きなくくりでの「パンツ」を定義したいと思います。

パンツ

これ以上明快な定義があるでしょうか。

定義になっていない?大丈夫です。定義することは目的ではないのですから。

これはあなたが恐らく今想像しているパンツです。それは私が今想像しているパンツでもあります。

ここでパンツを定義する理由は、これからパンツを論じるにあたって、あなたと私の想像するパンツを同じにすることです。そこに相違がなければ、目的は十分に達成されています。

見せパンはパンツなのか?

早速、今回の問題を考え付くに至ったきっかけである「見せパン」について考えます。

「見せパン」とは何か

「見せパン」は「パンツ」なのでしょうか?

私は、「見せパン」は「パンツ」ではないのではないかと思います。

じゃあ見せパンは何なのか?そう考えるのは自然です。

明快にお答えしましょう、見せパンとはパンツの名前を冠した、ただのズボンであると。もしかしたら「見せパン」の「パン」は、もともとズボンという意味の「パンツ」という可能性もあるけど。多分そうじゃないよね。

「見せパン」というのは、名前にもある通り「見えること」「見えてしまうこと」が前提になっているわけです。

どんなことがあっても「パンツ」は見られてはならない。そのために、「見せパン」という1枚を仕込んでおいて、「パンツ」が見られるかもしれないという万が一に備えているものだと思います。

さてこの見せパンですが、もちろん「見せパン」というものが市販されているということは存じておるのですが、正味なんだっていいわけです。

よくあるのが、体育着の下を穿くみたいな。これだって立派な見せパンになるわけですが、この場合、「見せパン」と自称したり他称されることってあんまりなくて、「下にズボンを穿いている」という「下にズボン」という文章での表現になるんじゃないかと思います。「下にズボン」状態に当たる形容詞や名詞は存在しないので。

ということで、見られていいレベルが違うだけで、「見せパン」はズボンなんじゃないかと。こういう結論になりました。

 

「パンツは隠せ」と教えられる

さて、「見られてもいいパンツ」=「見せパン」=「ズボン」なんじゃないかということを書きましたが、それでは、「見られたらダメなパンツ」とは何なのでしょうか?

恥部を見られるのはダメ、というのは100歩譲ってわかるのですが、その恥部を隠す「パンツ」を見られたら嫌だ、というのはどういうことなのでしょうか?

これには、当然「下着を見られるのは恥ずかしい」という意識文化の刷り込みが前提にあります。

幼少期からは、我々は「パンツは隠せ」と教えられるのです。それが人間社会の秩序であるという、悪魔的な理由によって。

「パンツを見られることが嫌」という心理は、その刷り込みに加え、パンツが「見られたらいけないように(=下着として)作られている」ということに起因するのではないかと思います。

たとえば、ノーパンで普通の半ズボンを着用している状態を考えます。

このとき、半ズボンは皮膚と直接接触しており、あらゆる衣服の中で一番皮膚に近く、下にある存在なので下着とされるべきです。

しかし、この状態は、多くの人が(多少の羞恥心を感じながらも)見られてもいい状態にあると考えるのではないでしょうか。下着であるのにもかかわらず。

これは、半ズボンが、「見せるために作られている」衣服だからです。

しかも、半ズボンは、ノーパンの状態でも恥部が見えてしまうことをおおむね防ぎます。ノーパン半ズボン状態が「見られてもいい」のは、この安心感によるものでしょうか。これがショートパンツ(ズボン)だったら、同じようにはいかないと思われます。

人は自然に「見えてはいけないもの」が見えている状態を解消しようとします。パンツは、「本当に見られてはいけないもの(=恥部)」を隠し、それ自体も「見られてはいけないように」初めから作られているのです。

パンツは、言わずもがな最後の壁。

そして皮肉なことに、保険であるはずの見せパンというパンツならざる存在が、パンツを秘匿しパンツの価値をより高めています。

一般に、見る頻度の低い珍しいものほどその価値は上がり、見る頻度の多いありふれたものほどその価値は下がります。

パンツを隠そうと努力するということは、自らのパンツの価値を上げているということに他ならないのです。

パンツも見せるために作られてるよね

それにしても、どうしてパンツは見られてはいけないものと多くの人が捉えるのに、可愛げで端麗なデザインが多いのでしょうか。それって全部「見られること」が前提だと思うんだけど。

見られないことが前提なんだから、装飾なんて一切ないほうが合理的だし、万が一の際にも安全(?)じゃん。と。

 

あの綺麗なフリルやリボン一つ一つは、決して不特定多数の人間に対しての服飾ではないのです。

あれらの服飾は、平時には隠されることで、大切な人にお披露目するときの価値が高められているのです。

パンツの服飾は無駄な装飾どころか、生物にとってむしろ一番大切な装飾なのかもしれません。

あなたはなぜパンツを穿くのか

脱ぐためにパンツを穿く

なぜ人間がパンツを穿くのかについて考えてみましょう。

脱ぐために穿く、穿くために脱ぐというのは、当然です。

当然というのは、普通であるということです。考えてみると、私たちは普段ほとんどの時間パンツを穿いています。

つまり、パンツを穿いているというのは「日常」です。パンツを穿いているということは、日常を過ごしていることの証なのです。

意味を返すと、パンツを脱いでいるときというのは、非日常ということになります。

さて一般に、脱ぎたいと思ってパンツを脱ぐときはどういうときでしょうか。

それは、風呂とえっち時です。トイレでも脱ぐじゃないかと言う人がいるかもしれません。トイレでパンツを脱ぐのは排泄するためで、トイレを楽しむためではありません。もしパンツを脱がずに排泄が済むなら、わざわざパンツは脱がないのです。

そして風呂を楽しむのは、もしかしたら日本人特有かもしれません。海外では風呂(シャワー)は単なる清潔を保つための手段にすぎないのかも。そうすると、脱ぎたいと思ってパンツを脱ぐのは実はえっちするときだけなのでは。

非日常を楽しみ、体験や価値を最大化するときのために、我々はパンツを脱ぐのです。そしてその理由はそのまま、パンツを穿く理由でもあります。

別に、非日常時に外せばいいのなら、何だってよかったのです。ピアスや指輪などのアクセサリー類でもいいし、腹巻きやリストバンド、靴下とかでもよかったはずです。

それがあえて性器を隠すパンツ。この本来的なパンツの働きから考えても、えっちの体験をより高める一つの道具であるというパンツの存在意義は、的を射ているものと思います。

パンツは、日常と非日常をつなぐツールだったのです。

秘部を隠すのはお互いのため

単純な話、いつも見ているものは見慣れるのです。

人類が裸で歩いていたらどうでしょうか。最初は楽園だと思うオスの皆さんがおられるかもしれませんが、それもちょっとすると飽きてきます。

ちょっとやそっとじゃ勃たなくなってくるんでしょう。知らんけど。なんせ生で見たことがないもんだからさ

生物的には、異性に興奮しない状況は好ましくありません。繁殖に影響が出て、子孫が残せなくなるかもしれないからです。

人間は思い付きました。セックスの時に使うものは、普段は隠しておけばいいじゃないかと。

覆われることによって、見えないことによって、性的魅力がより引き出されるではないかと。

性的魅力が上がることは重要です。肉体的な性的魅力はあるもの以上増えることはありませんが、道具によってそれを増幅させることができるとあらば、そりゃやるでしょ。くだらないことのようですが、人類という種の存亡に直結していますから。

そして特に秘部に関しては、2重バリアの要領で、かなり硬めにガードするようにしました。こうすれば秘部はより隠され、人間の想像力が性的魅力を格段に飛躍させます。その飛躍の度合いはもはや無限。ミロのヴィーナスと同じで、人間は目の前に見えないものに対して、とんでもない想像力を働かせるのです。

今まで数多のオス少年がもどかしい思いを抱き続けてきたパンツという代物は、あろうことか、オスたる少年自身のためにあったのです。

透明なパンツを穿こうと思うか

透明なパンツがあります。あなたは、これを穿きますか?

パンツを穿くことの根源的理由は前に書いた通りですが、今日において、パンツを穿く理由はそれだけではありません。

パンツを穿いていれば、ズボンを毎日洗濯しなくてよいのです。

今日パンツには衛生的な面、保温性など、衣服としての着用理由があります。人によってはこっちがメインじゃないか、何を今更みたいな人がいるかもしれませんが、ちょっとパンツを冒涜しすぎではないですか。

衛生という面で考えれば、一枚布がそこに「在れば」良いだけなので、色や装飾などは関係ないはずです。それなら、透明なパンツでも不足はありません。私は普通に穿くでしょうね。私は自粛期間でノーパン生活にハマってしまったので、夏なら穿かないかもしれないけど(誰得情報)

そんな透明なパンツを穿くなんてとんでもない、という方もいることでしょう。中にはその理由づけができる方も、できない方もいるでしょうが、どちらにしても卑下する必要は全くありません(というか真剣に考えるヤツなんかいるんだろうか)

「なんか嫌」でもいいのです。人間は理論ではなく、感情ベースで動く、変な生き物なので。それが説明できないのも、説明できるのも、あなたが人間である証拠です。

 

終わりなきパンツ

松岡禎丞さんのキャラソンに「終わりなきパンツ」という歌があります。アニソン界ではお馴染みの畑亜貴さん作曲なのですが、非常に興味深いためここに全文引用させていただき、見解を述べて結びとしたいと思います。

はてなブログJASRAC管理楽曲利用許諾契約を締結しているため、個別許可なく歌詞の掲載利用が可能です

 

終わりなきパンツ

愛徒勇気(cv.松岡禎丞) 作詞:畑亜貴

 

手を伸ばしても届かないのは

何故なんだろう

そこにある 確かにあるとわかっているから

もどかしいのさ

 

君のぬくもり包むその布

ああ…大好き。

カタチより色より 存在が愛おしいよ

もっと もっと ただ近くで感じてたいんだ

 

恥ずかしがりの苺ちゃんでも

悪い娘ぶったレースの黒でも

僕は受け止めるから

さあ見せてごらん

見たいんだほら見せてよ Wow wow wow

 

あきらめないと決めた時から

夢はいつしか誓いに変わる

脱がなくてもいい

だから触るだけさそれだけだよ

嗅いでみたいそれだけだよ

 

君を守ってる小さな鎧

無力なふりで実は手強い

だけど許して 許して欲しい

大好き過ぎるパンツは…終わりなき夢さ…

 

あきらめないよ あきれないでよ

夢をいくつか抱きしめながら

震える心 いまは

さあ見せてごらん

見たいんだほら見せてよ Wow wow wow

 

あきらめないと決めた時から

夢はいつしか誓いに変わる

脱がなくてもいい

だから触るだけさそれだけだよ

嗅いでみたいそれだけだよ

 

これを書いているのが女性というのがまず衝撃ですよね。畑亜貴さんマジで天才やろ。知ってたけど。

少年がパンツに対して抱いている葛藤や憧れがギュッと詰め込まれています。

 

手を伸ばしても届かないのは

何故なんだろう

そこにある 確かにあるとわかっているから

もどかしいのさ

 確かに存在するけど、決して見えないし届かない壁。

こんなにもどかしい存在も、パンツくらいのものでしょう。

 

君のぬくもり包むその布

ああ…大好き。

カタチより色より 存在が愛おしいよ

もっと もっと ただ近くで感じてたいんだ

 どんなに飾ったものでも、あるいは質素なものでも、

パンツの存在や概念の前には到底太刀打ちできません。

概念がすでに崇高。

それから「君のぬくもり」はガチで天才。

 

恥ずかしがりの苺ちゃんでも

悪い娘ぶったレースの黒でも

僕は受け止めるから

さあ見せてごらん

見たいんだほら見せてよ Wow wow wow

 さあ見せてごらんはアカンでしょ。

見せられたものに価値なんてあるのか?

 

あきらめないと決めた時から

夢はいつしか誓いに変わる

脱がなくてもいい

だから触るだけさそれだけだよ

嗅いでみたいそれだけだよ

 本当にパンツの歌かこれ?

「あきらめないと決めた時から夢はいつしか誓いに変わる」って。

涙ちょちょ切れてきましたよ。

 

君を守ってる小さな鎧

無力なふりで実は手強い

だけど許して 許して欲しい

大好き過ぎるパンツは…終わりなき夢さ…

感動した。結びの言葉としてこれ以上のものがあるでしょうか。

もうこの詩をもって結びとかえさせていただきたいと思います。

お疲れさまでした。

以上です。