ひとばん寝かせたカレーはとてもおいしい

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そういう高校生活

(卒業文集に載録したものです)

高校生活を振り返ったとき、楽しかった思い出をすぐには思い出すことはできなかった。これはすなわち、私の高校生活がそういうことだったということを意味する。しかし、不思議とこの3年間に対しての後悔はないし、未練もやり残したことも特に見当たらない。これは私が、特に楽しいことがなくても生活できるということなのだろうか。否。もう後戻りできない、若くある今という時間を過ごしたからなのだろうと思う。

今という時間は人生の中で一番若い一瞬である。とりわけ「青春時代」という肩書きがついている限られた期間のうちには、何かの崇高な目標を達成しても、ただ怠惰におぼれても、どんなことをしたかなんて関係なく、過ごした時間に価値がある。この文集には多くの高校生活の後悔が綴られているだろうが、それは各々個人の考えであるに過ぎない。「その時間を過ごしたこと」に対して、俯瞰的に見るとそれに価値があるのである。

そんなことを書いているうちに、高校生活での印象的な出来事が思い出されたので、述べていこう。高校2年生の文化祭では、私は独走することの楽しさを学んだ。企画である映像の制作から、教室内のデザインに至るまで、ほとんどすべての作業・雑務を行い、文化祭当日は両日ともフルタイムで仕事に励んだ。この教室に企画をよりよくしようという雰囲気はなかった。彼らの目指すところはクラスの団結ではなく、インスタ映えする写真を撮ることであった。もはや私の独走に対して、諫める者も止める者も現れなかった。独走はエスカレートし、私の辞書からは「頼る」という言葉が削除された。いつしか私はこの企画は俺の企画であると錯覚した。

俺の企画は中間発表を学年1位で通過し私を歓喜させたものの、最終発表では予期せぬ他組の追い上げを受け、2位への転落をもって幕を閉じた。無念の首位転落に対し、どうやら悔しがっているのは私ひとりのようであった。

しかし私は満足であった。これまでに味わったことのない喜びと責任は、すべて私の独走によって得られた私の感情である。何人たりともこの感情を味わうことはできないのである。この事実は私の独占欲を大きく刺激した。私はHIKAKIN氏の言葉「全部一人でやって責任も利益も独り占め」を固く胸に誓い、いつも通りひとりで家路に就いた。

そういう高校生活であった。