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嫌いな人を見つけた!!!!

私はここ数年の間、私は好きな人も嫌いな人もいないと思っており、人を好きになれない理由は人を嫌いになれないからだと思っていた。

だが、とうとう見つけてしまった。私の嫌いな人だ。いま、私の頭の中にはある男の子のイメージが思い浮かんでいる。1回しか会っていないので、もう顔のdetailは忘れてしまったが、私は彼のことを度々思い出し、彼とその周りの人間を憂いている。彼は私にとってどうでも良くない存在に成った。つまり彼は私の嫌いな人だ。

もう一つ、同時に気づいたことがある。私は周りに恵まれすぎていた。誰しも、自分にとって「いい人」が好きだと思われるが、私の周りにはいい人しかいない。私にとっていい人であることもそうだし、大小の社会にとってもいい人たちばかりだ。だから私は人を好きになったことがないなどと愚かな勘違いをしていた。

私は私の周りの人がみんな好きだったのだ。好きな人に囲まれていたのでそれに気づけなかった。毎日快適な生活を送っていたからこそ、普段身の回りにいない異分子が目の前に現れたときに強い拒否反応を覚え、自分の「嫌い」を知覚することになった。

 

彼の具体的に嫌いな点を列挙すると、彼のプライバシーを侵害しそうなので、なるべく一般化しながら私の嫌いな人について分析する。

まず一番に、私は人の話を聞く余裕のない人が嫌いだ。

人の話を聞く余裕のない人は、とにかく自分のことを知ってほしいし、承認してほしいと思っている(と思われる)。あらゆる発言で主語を自分にし、自慢を織り交ぜながら、興味のない自分語りを延々とする。聞いてもいないのに所属している組織の名前を挙げ、そのネームバリューを誇示する。これは小人の何よりの証左だ。

一般的な感性を持つ私たちは、相手に「休日は何してるんですか」などとよく質問する。しかし、その質問をするとき、本当に相手が休日何しているかを知りたいわけではない。相手が休日に何してようが、全く興味なんてないのだ。ではなんでそんな質問を相手にするのかといえば、相手に喋らせて、相手との共通点を見つけて、お互いにとって楽しい会話の糸口を見出すためだ。

人の話を聞く余裕のない人は、これができない。自分にとって興味がない他人の話を聞く余裕がないから、「休日は何してるんですか」という質問が相手にできないのだ。人の話を聞く余裕がなくてプライドが高いと事態はより深刻になる。人のアドバイスを聞き入れることができない。少しでも助言のようなことをしようものならすごく嫌そうな顔をする。こうなるともう救済は不可能となる。

人の話を聞く余裕のない人は、グループでの会話において必ず発生するあの空白の時間を自分語りで埋めようとする。いや、空白以外の時間も自分語りで埋めてくる。そうなるとそのグループのメンバーは一定の周期とトーンで相槌と愛想笑いを打ち続けるロボットと化すが、自分が退屈な話、もう切り上げるべき話をしていることに気がつかないのだろうか。とっているのが笑いではなく冷笑であることに気がつかないのだろうか。

気がつかないのだ。周りが見えていないから。

そしてタチの悪いことに、そういう人は「このグループはノリが悪くて話が面白くないメンバーが集まった」みたいな雰囲気でそのあとを過ごす場合が多い。それがお前のせいであることに気がつくことはない。周りが見えていないから。

人が集まると、暗黙的に会話のMCは一番のおしゃべりに任命され、卓の雰囲気はほとんどMCに託される。自分は今MCをしているんだなと認識し、全体最適に徹することができる人がMCを務めてくれると、場はとても楽しくなる。私も日頃その恩恵に預かっている。私の周りにはすすんでMCになるような人は少ないが、裏回しの上手な人が多い。卓であんまり喋っていない人にパスを出せる人だ。そしてそれができる人というのは、例外なく、自身の興味を抜きにして人の話を聞く余裕がある人だし、やろうと思えばMCもうまくやれる人だ。

 

私はセンスのない仕事をする人が嫌いだ。

どうして、これじゃダメだと思えないのか。経験不足であっても、具体的な解決策までは見つからなくても、なんとなくこれって理想の形と違うな、と思えないのか。

もちろん、経験や勉強をある程度積んだ上でセンスが形成されるのは間違いないが、そのものが良いか悪いかの2値判断くらいは普通に生活していればできるだろと思う。これで悪いほうを選択し続ける仕事をする人が結構いる。どうして? 自分が見ている世界と他人が見ている世界は全く違うし、仕方ないと言えば仕方ないが、なんというか、あの、なんとかならないのだろうか。

これに関しても、自覚があれば問題ないが、自覚がなくてプライドが高い(人の話を聞く余裕がない)ともうどうしようもない。


どんな会話も「いや、」から始める人が私は嫌いだ。

どんな会話もまず否定から始める人がいる。多分、無意識でやっているんだと思うが、よくない癖だ。まず否定は議論を前に進めない。雑談だったら議論の必要はないが、雑談で一番大事な「楽しい」はひとつの否定によって完全に消失する。自分の意見や立場と違うとき、相手の言ったことをすぐに否定したくなる気持ちはわかるが、それでも会話を否定から始めるのはなるべくやめたほうがいいと思う。私ももしかしたら無意識でやっているかもしれないので、注意しないといけないなと思った。私の周りの人にはそういう人はいない。むしろ、私がどんな見当違いなことを言っても、一旦受け止めてくれるおおらかな人が多い。感謝しなければならない。

 

私は少数派属性を自称している人が嫌いだ。

ようするに、変わり者だと自分で思っている人ということだ。自称変人が本当に変人だったためしは今までに一度もない。臆面もなく自分のことを変人と言える点では変人なのかもしれないが、そうやって変人という括りで自分のことを承認してほしい時点で人並みの承認欲求をお持ちですやんとなってしまう。

こういう人たちは、どうにかして人と同じキャリアを歩みたくないとか、人と同じ思考を持ちたくないと思う傾向があるようで、意識的に多くの人が進む道を疑ったり、避けようとしたりしている。新しい道を探る試みは大変結構なことで、私はそれを完全に支持する。しかし彼らの選択は、結局「他人がやっていないから」という、他人軸の選択になりがちな気がしている。自分の意志や本能に従わず、周りの人の動向にしたがって自分の道を選択しているという点で彼らはマジョリティの一員から抜け出せていない。彼らは自分を社会の歯車ではない異端児であると信じながら、実際にはきちんと社会の歯車に組み込まれている。滑稽だが、かわいそうだ。だから私は彼らの幸せのために、彼らはこの事実を知らないまま、考える機会もないまま一生を終えてほしいと思っている。社会の歯車に本当になりたくないのなら死ぬしかない。

話をよりライトな話題に戻すと、自称〇〇が本当に〇〇であることは非常に少ない。〇〇に入りがちなのは、「変わり者」「プロ」「ADHD」「社会不適合」「陰キャ」「友達いない」など。みんな全員普通の人だ。はっきり自称しなくてもそう思っていることは話していればすぐにわかる。私は嘘をつくのもつかれるのも苦手なので、これらを自称されると目の前でバレバレの嘘をつかれている気持ちになる。嘘をつくならそうとは気づかないくらいうまい嘘か、明らかに嘘とわかる嘘なら気持ちがいい。

ちなみに、他称〇〇はある程度信用できるが、その人が〇〇と他称されることは...いや、あるな。これはある。その人が聞いて気持ちのいい言葉をかけてあげるのはコミュニケーションの基本だ。実態が伴っている必要はない。めんどくさい人間はご機嫌をとって流しておくに限る。そうやって多くの人に流されていることに気がつかない人が嫌いなのかもしれない。

 

そしてそういう人たちの集まった東京の大学生コミュニティ。学歴だけは一丁前に手にしたクソガキが、タダ飯の前に集まり、お互いの承認欲求を満たし合うだけの空間。利権で繋がっている人たち。こいつらタダ飯なかったらここに居ないんだろうな〜と思った。気持ち悪い空間だった。ただ来たい時にフラッと来て、ボードゲームで時間を浪費して、ちょっと酒を入れて、喋って、気持ちよくなって帰る。コミュニティに必要なのってこれだけだ。東京と富山で2つのコミュニティに混ぜてもらって思った。

 

私の周りの人は本当にすごくて、大体数年の付き合いになるのに私の前で襤褸を出さない。これは本当にすごいことだ。一緒にご飯に行ってその人のことを嫌いにならないことがどれだけありがたいことか。私は本当に周りの人に感謝しなきゃいけないなと思ったし、いけすかない人は自分の健康のために遠くにそっと置いておこうという気持ちを新たにした。