はたちと酒と飲み会
先月で20歳になったこともあり、堂々とお酒が飲めるようになった(まぁ今までコソコソと飲んでいたわけではないが)。
てか酒に関しては18からいけるようにすべきだと思う。べつに早く飲みたかったとかではなくて、20歳までに酒に慣れておかなければならないからだ。
ふつうに生きていたら、18歳くらいにもなれば、付き合い上飲酒しなければならない場面に遭遇する。そこで未成年だからと言って誘いを断ると、法律を守っているだけなのになぜか「付き合いわりーなー」みたいな顔をされる。おかしな話だ。
さらに先日、成人年齢が18歳に引き下げられた。今までは「未成年だから」という理由でなんとか飲酒を断ることができたが、もはやその口は吞兵衛相手に通用しない。「もうお前も成人なんだから」と言われて、イヤでも飲まされるのがオチだろう。これにより、未成年者飲酒禁止法はより見かけ上の法律となった感がある。
法律と教育が生み出した現代の化け物。それが私だ。
私は今まで従順に法と教師の教えを守ってきた。成人するまで自ら酒やタバコに手を出すことはなく、自慰やセックスのやり方も知らずにここまで来た。20歳まで潔白を貫き通し、純真無垢であり続けた。俺には女性声優になる素質があると思う。
それがハタチになった途端。もう20歳だから飲めるんだろ?と言わんばかりに、そして飲ませても法的な問題はまったくないという正義のもとに、大人たちの酒への誘いはとどまるところを知らない。つい最近までほろよいすら飲んだことのなかった人間の前に、正義の名のもとブラックニッカのショットが運ばれてくる。
私はこれを5回に分けて飲んだが、3回目あたりからは嘔吐反射との闘いとなった。ウイスキーもビールも、コーヒーと同じで慣れればおいしさがわかるのだろうが、今のところはまだ毒入り麦茶である。
そして飲み会そのものについても、消費するエネルギーやリソース以上の楽しさがあるのかどうかについては疑問が残る。
飲み会では大して好きでもない酒を飲まなければならないという肉体的な負担に加え、コミュニケーションをとり続けなければならない精神的負担、時間的負担、そして多くの場合は金銭的負担を伴う。飲み会は確かに楽しいものだが、これらのリソース負担を上回る価値や楽しさがあるのかといわれると、少々微妙なところではある。
そもそもこんなことを考えている人間は、飲み会とかそういう場所は根本的に向いていないのだろう。飲むヒトは損益で物事を考えていない。酒は損益とかそういう、人間の行動を制限する呪縛から人間を解放するツールだ。大人はふだん損益のことばっかり考えているので、たまにはそういうものから離れた時間をすごしたいのだろうなと、そう理解した。
まぁ人間の社会生活においては、その場での利益や損失だけが要素のすべてではないので、飲み会を完全に否定するつもりは当然ない。みんなが楽しくしている場所で自分も楽しく振る舞う、その場所での楽しさを共有する、分かち合うというのは、単純なリソースの損益と同じくらい(いや、それ以上に?)大切なことなのかもしれない。
とにかく何が言いたいかというと、酒には早く慣れておいた方がいいということ。酒は18歳からいけるようにするべきだと思う。