私がこのように思う理由を他人に喋る機会が全くなく、したがって承認されることもなく、また同様の主張をする人を見たこともないのでここに発散するだけであり、理由は後述するが私を含めそう思っている人に対して配慮する必要はないと思う(じゃあなんでわざわざ発信するのかというと、自分の考えを自分の頭の中だけに溜め込んでおけるほど大人ではないから)。私はマジョリティの快適な暮らしのため、マイノリティは我慢できるところは我慢した方がいいと思っている。この件に関しては私は完全にマイノリティの自覚がある。
毎年一回、誰にも誕生日が訪れる。私にも訪れる。ありがたいことに、多くの人から誕生日おめでとうございますと言われ、誕生日プレゼントなるお祝い品やお祝い会を受けとったりする場合がある。それにありがとうございますと返事をする。私も相手の誕生日には同じことをする。
これは私が周りから愛されていることの証左であって、本当に、本当にありがたいことだが、嬉しいかと言われると別の話だ。私は自分の誕生日には本当になんの思い入れもないので、特段思い出したいわけでもなく、むしろどちらかというとあまり思い出したくないくらいなので、別にわざわざリマインドしていただかなくてもよい。なので自分の誕生日もなるべく他人に言わないようにしているが、何かの拍子で知られてしまうと当日にリマインドが入るようになる。
リマインドされると思い出さざるを得なくなる。リマインドがなければ何も思い出すことなく過ごせるのに。リマインドがほぼ確実に発生するので前日あたりから(ああ、そういえば明日って誕生日なのか)と自発的に思い出してしまうようになり、鬱陶しい状態が数年続いている。
ので、本当は誕生日おめでとうと言わないでほしいというか、別に不快ではないんだけどかといって嬉しくもないから、私には言わなくていい、の方が近いけど、とにかく、本当はそうしてほしい。だが、社会にいるほとんどの人は、誕生日おめでとうと言ってほしいようで、その価値観を人類共通のものとして捉えているようなので、私も社会の中で生きている関係上、そういう私のわがままが聞き入れられるのは不可能だと思っている。そこに関しては諦めているので、誕生日おめでとうと言われたからといってムカついたり、不快なのでやめてくださいなどと反発することはないが、本当は何も投げかけられない状態が理想的ではある。
このひねくれたような思想・行動については、そもそも誕生日はおめでたい日ではなく、ただの日という認識が前提となっている。さらにその前提にある考え方は反出生で、ここでは説明を割愛するが、乱暴に言えばあんまり産まれたくなかったので誕生日はおめでたい日ではないという説明になる。反出生の考え方に忠実になれば、誕生日はむしろ忌まわしい日になるはずだが、私はそこまで過激派ではないのでそうまでは思わない。ただの普通の一日。本人確認のための意味しかない固有値。だが不思議なことに、誕生日を祝ってほしい反出生主義の人たちがいるようだ。どういうことなんだろう。
おそらく誕生日というのは本質的には祝いたいわけでもなく祝ってほしいわけでもなく、相手は誕生日という自分の固有値を覚えてくれているのかな、自分は相手にとって一種特別な存在で在れているのかな、ということを判断・確認する承認欲求ベースの指標なのだと思う。
そして、私はなるべく大衆の気を害さないよう、この「誕生日おめでとう」にまつわる一連のイベントにむしろ積極的に参加している。自分の誕生日がどうでもいいので当然他人の誕生日などもっとどうでもよく、おめでたいともあまり思えないが、気づいたらしっかり「おめでとうございます!!!」と言い、「素敵な一年にしてください」などと添え、日頃から世話になっている人であればプレゼントを買って差し上げたり、ご飯を奢ったり、している。よくわからないが、喜んでいただけているようなので、彼らが幸せなのであればOK。しかもその人との関係値を深められるという特典もついてくる。
大人なのだから、実際どう思っているかに関係なく、何を口から言うか、何をやるかが重要。高校生くらいまでの私は頑なに「誕生日おめでとう(ございます)」と他人に言うことを誤魔化して避けてきたが、今では普通に言っている。
他人の誕生日は、祝ったほうが良い。それは、祝われて嬉しい人の方が圧倒的に多いので、幸福増加の期待値が高いからだ。だから私もやっているし、相手もやっている・私にやってくるのだろう。ほぼ確実に相手が幸せになってくれるのだから、やらない理由がない。そのため、祝われて嬉しくない人が存在するからといって、(この人って誕生日おめでとうが嬉しくない人かも...)などと配慮する必要はない。それによって損失する幸福増加の機会が多すぎる。私も嬉しいと感じないだけで、別に不快になるわけではないのでそんなに大きな問題はない。
家族に関しては、これまで育ててきてくれたことの感謝の日として、私の誕生日近くには一般的な慣習とは逆に自分が外食をご馳走するようにしている。感謝の機会というのは本当で、実際にもそう思っているが、おめでたくもなんともないただの日なのに私がそういう体でお祝いされる・ご馳走になるのは意味わからないからということのこじつけでもある。そんな感じで自分なりにバランスを保っている。
あともう一つ、私が自分や他人の誕生日に対して関心がないのには、自分の問題もある。それは何かを伝えたい相手がいないし伝えられたい相手もいない、というかわいそうな現実だ。私に誕生日おめでとうと言ってくれる人はたくさんいるのに、私は彼らには心中を吐露することはできず、はてなブログの編集画面にこのように文字をタイピングすることによってしかこの持論を展開することができない。昔、声優の水瀬いのりさんを割としっかり推していたときには、彼女の誕生日である12月2日には彼女に対し、産まれてきてくれてありがとうと本気で思うほどだったことを記憶しているが、フェードアウトしてしまったのでそういう思いも雲散霧消してしまった。ただ無条件に産まれてきてくれてありがとうと、これほど想える人が(自分自身を含めて)一人でもいればまた違った考え方にもなるかなと思うが、今のところは残念ながらそうではないので、温かい人たちに囲まれた孤独な人生を送っている。