ひとばん寝かせたカレーはとてもおいしい

Twitterに載っけられない長文置き場

「誕生日おめでとうございます」

オタクは臭う

8月いっぱいでは豊かな夏休みが実現できなかったため、9月頭は北海道に行ってきた。
ここで思ったのが、オタクは臭うということだ。
本当の意味で臭いオタクもたまにいるが、そうではなくて、ネカフェとかにいる同業者の鉄オタが雰囲気でなんとなくわかってしまうということだ。

私は宗谷本線の糠南(ぬかなん)駅を訪れようとしていた。
糠南駅は、草原の中にあるいわゆる「秘境駅」で、1日に止まる列車は上下合わせて6本しかない。これだけ見れば本数はそこまで少なくないと感じられるが、宗谷本線のダイヤの都合上、途中の任意の駅で滞在して現実的な時間に旭川に帰ってくるためには始発の汽車に乗らなければならなかった。

6時台の始発に乗るため旭川の快活クラブで夜を明かしていたとき、何人かのリュックサックを背負った若者がいた。グループではなくそれぞれ個人である。
旭川の快活クラブは駅から離れた国道沿いにあり、また町のはずれにあることから、夜間の若い利用者は少ない。そんな中で、何人かの若者が大荷物を持って快活クラブを利用していた。

私は臭うなと思った。こんな大荷物を持った若者が、この快活クラブに宿泊しているなんて、おそらく彼らは乗り鉄で、目的は私と同じように宗谷本線の一番列車であることがほぼ間違いないからだ。宗谷本線の一番列車は、名寄駅以北の特急の停まらない駅を訪問するのにほぼ唯一と言っていい選択肢なのである。

これだけの人(と言っても合わせて5人くらいだが)と一緒に、糠南の駅に降り立つことになっては困る。私は糠南駅に一人で降り立ちたかった。
中でも、私と同年代くらいの、私と同じようにメガネをかけた、そしてウエストポーチをしている男の子を、私は気に留めていた。
エストポーチというのがこれまた臭う。

そして翌朝、私は新旭川駅から無事に汽車に乗り込んだ。新旭川駅は快活クラブの最寄駅(徒歩30分)で、この駅から乗ったのは私と地元の女子高生1人、通勤の男性1人だった。私は彼らが一緒の汽車でないことに安堵した。心配は杞憂であったと思われた。彼らにはなにか別の目的があったのだろう。

しかし、私が糠南駅で降りようとすると、なんと私とは別に降りようとしている人がいるではないか。
旭川のホテルに泊まっていたのか。朝が早いのにホテル泊とは、ずいぶん贅沢なことをしているものである。

と思ってその彼を見てみると、彼はまさしく、私が快活クラブで臭うなと思っていた、ウエストポーチの彼だった。(本当に臭いわけではないよ)
私は拍子抜けした。私の嗅覚は間違っていなかった。

かくして私たちは二人で糠南駅のホームに降り立った。
彼に話しかけて事情を聞いてみると、どうやら彼はルーレットで目的地を決めて乗り鉄をしているらしく、前日のルーレットで糠南を引いてこの駅にやってきたというのだ。そんなことあるのか。
純粋に糠南が目的なのではなく、運命的にこの駅で巡り合わせてしまったのだ。私は彼に「運命ですね」と言った。
彼が女の子だったら、この後安いドラマみたいなラブストーリーが展開されていたかもしれない。

その後は彼と少し喋ったり、私が彼のルーレットを回して次の駅を決定したり、彼と私で交互に写真を撮りあったりした。

彼は気を利かしてくれたのか、途中で問寒別(隣の駅)まで歩くと宣言し、糠南駅から消えていった。
その後の私は1時間ほど、草原の中の駅でひとり口笛リサイタルを開催したり、意味不明の文字列を叫んでみたりと、自分ひとりの時間を謳歌することができた。彼に感謝したい。

彼とは引き返す列車で再会し、音威子府までオタ話をした。
彼はその後「旅は道連れ」とツイートしていた。旅は道連れである。
そしてオタクは臭う。もう同業者は雰囲気でわかる。

オタクの好きなもの全部のせアニメ

いま、リコリス・リコイルにお熱だ。
このアニメ、アニメ評論家によると内容が薄いらしいのだが、そもそもアニメの濃い部分までしっかり読み取れない私にとってはこれくらい適度に薄い方が見やすくてよろしい。黒髪・ロング・清楚 × 金髪・ショート・天真爛漫 × 美少女 × 美乳 × 百合 × 微エロ × ロリ × サイバー × アクション という、オタクの好きな要素を全部詰め込んで、いい〜感じに味付けしてある。どんな性癖を持つオタクでも取りこぼすことがない。

私は最初このアニメを普通に鑑賞していたが、これに気づいたときには感心してしまった。私が気づくくらいなので、実際に製作陣が意識しているのは間違いないだろうし、これに気づいている人も大勢いることだろう。
私たちは、製作委員会のマーケティングにまんまと乗せられてしまったのだ。ウケ要素てんこ盛りアニメ。

それから錦木千束(cv.安西千佳)さんは、もしかしたら初めて好きになった女キャラかもしれない。私は普段女性声優ばかり追いかけているくせに、今まで女キャラを好きになることはほとんどなかったのだが、千束さんは好きだ。キャラを好きになったのは俺ガイルの戸塚くん以来だ。
Pixivを漁り、めぼしいイラストはすべてすき!をつけたうえで保存させてもらった。
あとはキャラソンアルバムを出してくれればもう完璧である。

「誕生日おめでとうございます」

先月から右足の親指が腫れており、病院通いが続いている。
病院には実にいろいろな人がいる。中でも目立つのはやはり子供だ。3歳から5歳くらいだろうか。
外科の待合室には大抵いつも小さい子がおり、そして彼らが静かにしていることは少ない。何か気に食わないことがあるようで、かなり大層に泣いている。「ギャーギャー」というような擬音語で表せるような、生温かいものではない。それは魂の叫びだ。なんとか文字での表現を試みるならば、
「ぎぃ”ぃ”や”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!!!!!!!!!!!!!!」
という感じになるだろうか。
私もこのように、狭い待合室のなかで、たくさんの見知らぬ人間がいるなかで、自分や他人に正直になって、またつまらぬことに腹を立てて体全体でその怒りを表明したいものである。

病院の階段を降りながら、こんなことを考えた。
そうか、子供は話してもわからないのか。子供を持つのは良くないな。でも泣いちゃうのは仕方ないね、子供だし。
あれ、そういえば私は大人のようだけど、まだ全然子供だな。

私ももう結婚することもできるし、酒を飲むこともできるし、タバコを吸うこともできる歳になった。
しかしまだどうしても実感がない。
西松屋のおもちゃ売り場は見ていて楽しいし、スーパーで一番楽しいのはお菓子売り場だ。
鼻くそが詰まっていたら、トイレに行くこともなくほじってしまうし、チンポジだって人目もはばからずに直している。

しかし私は自身のとても童顔とはいえない顔面もあることだし、やるべきところではきちんと大人の仮面をかぶって生活する必要がある。
大人に求められるのは「我慢」と「妥協」だ。自分があまり快いと思わないようなことでも我慢しなければならないし、自分があまり飲み込めていないようなことでも妥協して相手に合わせる必要だってある。
私はそれらについて、今まで我慢したこともそんなにないし、妥協したこともそんなにないつもりだった。

例えば私は誕生日を祝うという文化や行動が理解できなかったため、こういうことを考えるようになってから今までの間、人に誕生日おめでとうと声をかけることは果たして一度もなかった。コメントを求められる機会が何度かあったような気もするが、多分うまく誤魔化していたと思う。
それは、私がこれまで自分や周りに対して、良い意味でも悪い意味でも正直に生きてきたためである。

しかし私も大人に混ざって仕事をするようになり、自分が価値を理解できないものに、大多数の人が絶大な価値を見出している場合が多くあることを知るようになった。
だから最近の私は、ある程度割り切って仮面を被ることをはじめた。これまでと一転して、多くの人に
「誕生日おめでとうございます。素敵な一年にしてください」
と、心にもない言葉を投げかけ、ときには誕生日プレゼントを買って手渡すこともするようになった。
偽善でも、それをやって人が喜ぶのなら、やった方が結果的に自分の得になる場合が多いらしい。
それを知ってからは、自分の感情を仮面の裏に隠して、そういうことを多くするようになった。
これには私の考えが世界に理解されないのだろうなという世界への諦めが伴っている。ストレスとかはない。

そして最近、この仮面を被った姿が、大人になるということなのだろうな、と考えるようになった。
世界を諦めながら、うまく世界で生きていこうとする矛盾。
やってみるとわかるが、他人に嘘でも愛を振りまくことは、結果的に自分にとってプラスになる場合が多い。
つまりこの社会生活のなかで、利己的行動を追求した結果は利他的行動だったのである。自分がいちばん効率よく生きていくためには、仮面を被って人に媚びなければいけないのだ。

私が誕生日を祝う文化に対して理解ができないのは、取るに足らない問題であるから別に問題はないのだけど、それにしても大人は大変だ。
そして私を含めて、仮面を被ってまで生きようとする人の気持ちが、より理解できなくなった。多分この世の中で、「任意のイベントXに価値を感じていない人」同士が、任意のイベントXについて価値の交換をし合っているような現象は、結構多く発生しているのではないか。
それは端的に言って、エネルギーの無駄である。エネルギーを無駄遣いしてまで、生きる意味がよくわからない。

みたいな。